
潜在意識の話の「自己責任」って…私が悪いってこと?
今回は「自己責任」についてです。
潜在意識のお話ではよく、
「すべて自分で選んでいる」
「自分の人生で起きることは、全部自分が望んで引き寄せたことだ」
というふうに言われます。
つまりは自己責任なんですよ、と。
しかし自己責任…だなんて言われると、なんだか嫌~な気持ちになっちゃう…という方もいるかもしれませんので、ここについて詳しくお話していきます。
潜在意識の「自己責任」とは「あなたが悪い」ではない
自己責任だと言われるとなんとなく暗い気分になる…という方は、おそらく、
「自分の責任だと認める」
ということを、
「自分が悪いと認める」
という意味に受け取ってしまっているのかな?と思います。
そうすると、
「え?でもこうなったのは絶対に私のせいじゃないんですけど!悪いのは〇〇だし!」
と言いたくもなって、なんだか嫌な気持ちになりますよね。
実際、
「自己責任だとすると、では仮に人から何か傷つくようなことを言われたとしたら、
それを言った側よりも言われた側の私の責任だ、言われる私のほうが悪いんだということになるんでしょうか?
私は、言うほうが悪いと思うんですけど…」
という質問をいただくこともあります。
ただ、私は自己責任というのは、
「悪口を言われるあなたのほうが悪いんですよ」
なんて意味ではないんじゃないかなーと思います。
悪口を言うか言わないかは相手が選んでいることなので、相手の選択・責任です。
しかし、
「その悪口を受けたあとに、どのように考え、どんな行動を取るのか?」
という点は、受けたほうの選択・責任だと思います。
泣いてふさぎこむ人、怒って仕返しをする人、まったく気にしない人…などなどいると思いますが、どんな反応をしたにせよ、
「そのような反応をしなければ痛い目に遭わせるぞ」
と誰かに脅されて仕方なくやったわけではありませんよね、自発的にやっているはずです。
自己責任だと認めましょうというのは、自分が悪いんだと認めましょう、ではなくて、
「物事に対して取る反応は、自発的であると気づきましょう」
という意味なのだと思うと、そんなに嫌な気持ちにならないんじゃないかな?と思います。
潜在意識がしていること=自分がしていること=自己責任
もちろん「自発的にやっている」と言っても、
「お、悪口を言われたぞ!
さて、私はこのあと…よっしゃ、泣いてふさぎこむことにしよーっと!」
とか顕在意識で考えてやっているわけではありません。
泣いてふさぎ込むという行動を反射的に取ってしまうように、潜在意識に刷り込まれてしまっているのでそうしてしまいます。
「好き好んで自発的にやっている」
わけではなくて、
「好き嫌い問わず、自発的にやるように潜在意識に操られている」
ような状態ですが、しかし潜在意識とは自分のことですから、自分でやっていることには違いありません。
ここで、
「確かに…別に『ふさぎこむのが好きだからそうしよう!』とか思ってやってるわけじゃないけど、
自分の潜在意識がそうしているんなら、自分が自発的にしているってことになるよなぁ…」
と思えると(自己責任だと認めると)そこから人は自由に幸せになっていける、と思います。
自発的にしていることならば、必ず自発的にやめることもできるからです。
「自己責任ではない」とすると、潜在意識は不幸へ向かう
ついつい、
「私は、あの人の言葉を受けて泣くことを選んだ」
ではなく、
「あの人が私を泣かせた。泣くことを選ばされた」
と考えがちになります。
こうなった責任は私ではなく他人にある、と。
しかしこれは、
「自分の幸不幸を決めているのは私ではなく、他人です」
と言ってしまっているようなもの。
幸せになりたいなら、他人に頼るしかなくなってしまいます。
「自己責任ではない、私が選んだわけではない」
顕在意識上でそう繰り返すのは、
「私は自分が幸せになるかどうかを他人に任せます」
と、潜在意識に繰り返し刷り込んでしまっているようなもの。
そのような刷り込みが行われれば潜在意識は、
「では、その観念どおりの人生を現実化してあげようっと(*´ω`*)」
と働いてしまうため、ずっと他人に左右される人生が作られつづけてしまいます。
自己責任だとすると、潜在意識下のこれまでのパターンは消える
対して、
「私は、あの人の言葉を受けて泣くことを選んだ」
というのは、
「私は、別の反応を選ぶこともできるんだ」
と認めた、ということでもあります。
ここで初めて、他人に頼ることなく自分の幸せを自分で作れるようになっていきます。
「泣く」というのが潜在意識に刷り込まれているため、
最初のうちは反射的に泣くことを選びたくなるかもしれませんが、自己責任だという自覚があればそこで、
「お、でもこれは人に選ばされているわけじゃないな。
私がいままさに、自分で選ぼうとしているんだな」
というストップがかかりますので、意識的に別の行動を選べます。
(これは「泣くのを我慢して別の行動を取らなきゃ…」というのとはまったく違います。
そういう我慢をせずとも、別の行動を取れるようになるということです)
「自己責任だ、私が選んだことだ」
顕在意識上でそう繰り返すのは、
「私は自分が幸せになるかどうかを自分で決めます」
と、潜在意識に繰り返し刷り込むようなもの。
潜在意識は、
「ではでは、その観念どおりの人生にするよ~(*´ω`*)」
となりますので、実際に自分で自分の人生を幸せなものにしていけます。
「自己責任だと認める=自分が悪いと認める」
ではなくて、
「自己責任だと認める=私は自由に幸せになれると認める」
ですよ(*^^)v
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「すべてあなたの自己責任」とは「すべてあなたの自由になる」ということです。
「自己責任」に関する記事は他にもあります↓
☆愛されないことで、自分の責任から逃れたい?☆

「愛されないせいで○○できない」という思いがないか?
今回は、
「愛されたいと思っているはずなのに愛されない」
というとき、その理由はあなたに、
「愛されては困るという信念があるから」
かもしれないよ、ということについてです。
あなたにはこういった経験がないでしょうか?
何かに挑戦できなかったとき、
「私はもともと愛されていなかったから、そのせいで自信がない。
だから、みんなみたいに挑戦できない…」
と思ったり、何かに失敗したときに、
「私はみんなと違って愛された経験がなくて、だからこんなこともちゃんとできない人間なんだ…」
と思ったり…。
これは、
「私が何かに挑戦できなかったり失敗するのは、『愛されていないこと』に原因があります」
という思考している、ということです。
言い方を変えると、挑戦できなかったり失敗してしまったとき、
「愛されていないという問題があるんだから、そのせいなんだから、
その問題がある以上、挑戦できなくても失敗しても仕方がないわ」
と言える、わけです。
ここで、愛される人間になったとしたら、どうなるでしょうか?
もうこれからは何かに挑戦できなかったとき、
「愛されないせいで自信がないんだからしょうがない」
とは言えなくなるわけです。
愛されている以上、愛されないからできない、とは言えない。
愛されているけど、私に勇気がないのでできない、と言うことになる。
失敗したときにも、
「愛されないせいで自信がないんだからしょうがない」
とは言えない…。
愛されているけど、私に実力がないので失敗しました、と言うことになります。
あなたは、それが怖いのではないでしょうか?
愛されてしまうと、自分の勇気のなさや実力のなさが明るみに出てしまう。
明るみに出てしまっては困る。
だから、愛されては困る…。
愛されないことで、自身の責任から逃れたいという思い
これは、実は過去の私のことです。
私はずっと、
「私がこんなにも弱く自信がないのは、周りが誰も私を愛してくれないせいだ」
と思っていました。
でも周りが愛してくれたら…くれちゃったら…。
私、もう言い訳ができなくなる。
愛されていないかぎりは、嫌なことは「愛されないせいで自信がないから」という理由で避けて通ることができるのに、
愛されてしまったら私は、避ける理由を失って嫌なことに自力で立ち向かわねばならなくなる。
立ち向かえなかったときには、周りのせいではなく私が弱い人間なせいです、と認めることになる。
そんなの嫌だ、怖すぎる…と。
「愛される=責任を自分で負うはめになる」
なので、
「愛されたいなら責任を負うor責任を負いたくないなら愛されない」
の2択になる。
この2つを天秤にかけると後者に傾く。
「自分のせいってことになるくらいなら…愛されないほうがまだマシだ…」
と。
そして、
「愛されないことによって、挑戦や失敗、責任から逃れよう」
という思考をもとに、実際に現実に、愛されないことを理由に、挑戦からも失敗からも責任からも逃げてきました。
自分の思考を、ちゃんと自分の力で現実化していたということに気づくまで、時間がかかったのを覚えています。
こうして潜在意識下で、自ら「愛されないこと」のほうを選択しているにもかかわらず、
顕在意識上ではその潜在意識下の選択に気づかず、
「私はどうして誰にも愛されないのだろう」
と思うことがあります。
これが「愛されては困るという信念をいだいているパターン」ですが、あなたはどうでしょうか?
本当は、愛されて困ることなどない
私は潜在意識下で自分がこういう選択をしていて、
「あぁ、自分が愛されないことを望んでいるから愛されないのか」
と気づいたとき、もうそれは、やめようと思いました。
怖かったけど、自分の責任は認めようと。
なので、こう言うようにしました。
なにかに挑戦したいけど、怖くて自信がなくてできないとき、
「私、それをやってみたいけど、怖いです」
とそのまま思っていることを言ってみることにしました。
前までは、
「自信がなくてできないです…昔から…たぶん親から愛されなかったせいで自信がないんでしょうけど…」
「私自身は失敗してでも挑戦したいとは思ってるんです…でも、ああだし、こうだし…」
みたいに、なにか言外に、
「私が弱いせいでできないわけじゃないんですよ?」
と伝える言葉や態度を取っていたのですが、それをやめてみたんです。
そうしたら、
「自信がないのかー、じゃあ、こっちは手伝うからあっちの部分だけやってみたら?」
とか、
「怖いのは普通だよ、それはダメってことじゃないよ!一緒にやってみよう!」
という励ましをもらえるようになったり、明らかに手を差し伸べられることが増えてきました。
「あ、責任逃れをやめたら愛されはじめた」
とはっきり感じることが多々出始めました。
考えてみれば、そりゃそうだよな~って思います。
責任逃ればかりしている人より、自分で責任を負おうとしている人のほうがそりゃ助けようという気にもなりますよね。
今になってみれば「そんなの自然なことだな」って思うのに、当時はそこがわからなかったです。
とにかく、
「責任を負う=挑戦できなかったり、失敗してしまう自分を正当化できなくなる。非常に困ったことになる」
という方程式が私の頭の中にあって「責任」というものが怖かったのですが、実際には、
「責任を負う=助けてくれる人が集まるので、非常に挑戦しやすく失敗しづらくなる。非常に楽なことになる」
でした。
「愛されたいなら責任を負うor責任を負いたくないなら愛されない」
↑この2択のうち、前者を選んでも困りはしないんだ、ということに気づいていなかったです。
あなたの頭の中で、いま、
「愛される=自分で自分の責任を負うことになる=困る」
と3つがイコールで結ばれていないでしょうか?
それは違くって、
「愛される=自分で自分の責任を負うことになる≠困る」
です。
「愛されては困る」という信念、手放していってくださいね。
愛されることと困ることは、本当はつながってはいないです。
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責任を負うということは、困るということではない。
愛されること、認められること、助けられることです。